堕ちゆく愛の天使 ～悪夢の蝶と邪悪なる毒針～

呼吸をすることすら躊躇われるほど、その空間は毒々しい紫色の瘴気に満ちていた。
かつて人々の営みがあったはずの街並みは見る影もなくひび割れ、廃墟と化したビルのシルエットが、歪んで渦を巻く魔界の空の下に墓標のように立ち並んでいる。

絶望が支配するその空間で、愛の天使エンジェルリリィは毅然と顔を上げた。彼女の胸元のセントリプライナーとイヤリングが眩い光を放つ。重苦しい空気を切り裂くように、愛天使の衣装と黄金の装飾が彼女の身を飾っていた。

「行きますわよ！」

リリィはセントシュトラールを力強く振るい、空に浮かぶ女悪魔ポタモスとその二人の分身へ向けて、渾身の技を放った。セントシュトラールの先端から眩いほどの神聖な光の帯が迸り、一直線に悪魔たちへと迫る。それは邪悪を浄化する、愛の天使の誇りを懸けた一撃だった。

だが、眼下の獲物を見据えるポタモスは、焦るどころか鼻で笑った。

「無駄よ！」

ポタモスと二人の分身が三角形の陣形を組むと、彼女たちの間に青白い電撃が走り、巨大な正三角形の魔法障壁が展開された。
リリィの放った神聖な光が障壁に激突する。しかし、光は障壁を貫くどころか、鏡に反射するようにあっけなく弾け飛び、虚空へと霧散してしまった。

「嘘……セントシュトラールが、全く通じない！？」

「ふん。恨みと嫉妬に燃えた美少女パワーは、お腹を空かした貪欲なオオカミさ！　みたいな！」

自らの最強の一撃が完全に無効化され、愕然と目を見開くリリィ。その顔を見て、ポタモスは蠱惑的でありながら、背筋が凍るほどの底知れぬ悪意を孕んだ笑みを深めた。

「……次はこっちの番よ！」

ポタモスが冷たく言い放つと同時に、魔界の空間が不気味に波打った。
暗闇の中から、二つの巨大な緑色の複眼が不気味に発光しながら浮かび上がる。バサリ、バサリと重苦しい羽音を立てて姿を現したのは、ポタモスが使役する巨大な蝶の悪魔だった。

「さあ、愛の天使。私の可愛い使い魔と、絶望の底で無様に踊りなさい！」

ポタモスの号令と共に、巨大な蝶の悪魔がエンジェルリリィに向かって急降下を始めた。

「きゃあっ！」

悪魔が巨大な翅を羽ばたかせるたびに、突風と共に毒性を帯びたどす黒い鱗粉が撒き散らされる。リリィはセントシュトラールを構え、吹き荒れる暴風と鱗粉の雨を必死に弾き飛ばそうとするが、先ほどの攻撃を無効化された動揺も相まって、防戦一方へと追い込まれていく。

「休む暇なんてないわよ！」

上空で腕を組んだまま見下ろすポタモスが嘲笑う。
蝶の悪魔は巨体に似合わぬ俊敏な動きでリリィの死角へと回り込み、鋭い爪を持つ脚で幾度も斬り裂くような波状攻撃を仕掛けてきた。

「くっ……！ やぁっ！」

澄んだ甲高い音が瘴気の中に響き渡るが、圧倒的な質量とスピードによる猛攻の前に、リリィの体力は急速に奪われていく。息は上がり、愛天使のコスチュームは汚れ、反撃の糸口は全く掴めない。
そして、ついにその時が訪れる。

「ああっ……！」

体勢を崩した一瞬の隙を突かれ、蝶の悪魔がリリィの身体にのしかかるように突進してきた。
巨大な脚がリリィの四肢を乱暴に押さえつけ、空中で完全に拘束する。セントシュトラールを取り落とし、無防備な姿を晒す愛の天使。その真っ白な肌に、悪魔の硬く冷たい感触が這う。

「ふふふ……お前のその穢れを知らない体に、ポタモス様の邪悪なフォースを注入してくれるわ！」

勝利を確信したポタモスが高らかに宣言する。
それに呼応するように、リリィを押さえつけている蝶の悪魔の口元から、禍々しい色をした太く鋭い針がゆっくりと伸びてきた。ジリジリと得体の知れない液体が滲み出すその針先が、リリィの滑らかな腕へと狙いを定める。

「いやっ……！ やめて……！」

必死にもがくリリィだが、悪魔の万力のような拘束はビクともしない。
そして、無情にも鋭い針が、リリィの白い腕へと深く突き立てられた。

「あっ……！ あああああああっ！！」

悲痛な絶叫が魔界の空に響き渡る。

「どうだ、愛天使。悪魔のフォースの味は」

突き刺さった箇所から、どす黒い紫色の染みが、不気味な脈動と共に肌の下を這い上がり、急速に広がっていく。それは血液を汚染し、彼女の内に秘められた神聖な愛の力を根底から腐敗させていく、邪悪なフォースそのものだった。

（誰か……お願い……リモーネ様……！）

薄れゆく意識、侵食される精神の中で、少女は最後の希望にすがりついた。
幾度となく窮地に陥った時、必ず駆けつけてくれたあの温かい光。魔の空間を切り裂き、自分を救い出してくれる鋭い剣閃を、彼女の心は必死に求めていた。
霞む視線を虚空へ向け、奇跡の到来を待つ。

しかし——。

どれだけ待っても、どれだけ祈っても、憧れの彼が姿を現すことはなかった。
静まり返った絶望の空間に響くのは、邪悪なフォースが自身の純粋な力をジュクジュクと侵食していく不快な音と、完全に勝利を確信したポタモスの、耳をつんざくような高笑いだけ。

「誰も来ないわよ。お前はここで、完全に悪魔の力に屈するの！」

「うう……あ……あっ……」

絶望が、毒よりも早く彼女の心を壊していく。
毒牙にかかり、蜘蛛の巣に絡め取られた美しい蝶のように、エンジェルリリィの身体から最後の抗う力が抜け落ちた。

全身に回った邪悪な毒により、瞳の奥から、愛の天使としての神聖な光が完全に消え失せる。
やがて蝶の悪魔が拘束を解くと、もはやピクリとも動かなくなったリリィは、濃密な紫色の瘴気の中へと、ただの抜け殻のように力なく墜落していった。

空を覆う闇が晴れることはない。
ただ、巨大な蝶の不気味な羽音だけが、悪魔の完全なる勝利を祝うかのように、静かに響き続けていた。